霊能力と超能力19

スピリチュアル馬鹿

 

10日ほど前、ヤクルトスワローズ由規投手が長いケガから数年ぶりに一軍に復帰して勝利投手になった。

この記事を新聞で読んだとき、あることを思い出した。

 

今年の初めだったと思うが、あるスポーツ新聞にこの人の談話が載っていた。私は風呂屋で偶然この記事を目にした。

それは今年はケガから復帰できそうなので、また一軍で勝てるように、京都のある神社にパワーをもらいにいったという内容だった。

 

この記事を読んで、またひとりスピリチュアル馬鹿が現れたと思った。

最近、神社はスピリチュアル・スポットで、参拝すると何らかのパワーがもらえると信じている人が多いようだ。

 

神社がスピリチュアル・スポットだという考えを流行させたのは江原啓之である。

由規投手が江原の本を読んだとは思えないが、どこかでこの考えに染まってしまったのだろう。

 

最近は神社が人気で、参る人が増えたというが、パワーがもらえるということで、それまで関心のなかった人が参るようになったからだろう。

 

それにしても神社も変わったものだ。

むかしは神様に何かお願いをしたり、ご利益をもらいに神社に参っていたのだが、それがパワーに変わってしまったのだ。これは現代版の御利益信仰だろう。

また昔の人は神様に感謝するために参っていたのだが、今の人にはそのような気持ちはないようだ。

 

しかし神社に参ったからといってパワーはもらえない。神様はそれほど甘くはない。

私は長い間ある神社に参っているが、パワーなどもらったと自覚したことは一度もない。もっとも私はそんようなことが目的で参ってはいないが。

 

江原は神社で自然のエネルギーをもらうといっているが、自然のエネルギーとは何だろうか。全く意味不明である。これはパワーのことなのだろうか?

いずれにしても、神社に参っても自然のエネルギーなど身につかないことは確かである。

 

スピリチュアル・スポットは霊的な場所という意味である。江原はこのカタカナ言葉で一体何がいいたいのだろうか? 霊的な場所には霊的な力が充満しているとでも言いたいのだろうか? 神社に行くとその力を浴びることができるとでも言いたいのだろうか?

しかし、神社をその意味で考えているのなら、それは間違いである。

神社には霊的な力など充満してはいない。神社は霊(神)のおられるところで、霊の住まいなのである。これが神社の原義である。それは今も変わらない。

 

だから、神社に参ることは神様と出会うことなのだが、いまのスピ系の考えにはこの視点が全く欠落している。

神社に参っても神様はパワーなど与えてはくださらない。願いを聞き届けてくださることや何かを教えてくださることはあるが、それは参るものの日頃の行いと心がけしだいである。

 

とにかくスピリチュアルという言葉を使っている人たちは、神社を誤解している。

私は何も考えずにスピリチュアルという言葉を使っているたちをスピリチュアル馬鹿と呼んでいる。

ただ、これは由規投手が馬鹿という意味ではない。神社に関しては考え方が間違っているといいたいだけなのだ。