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霊能力と超能力21

日本会議

 

神社の参り方について何度か取り上げましたが、神社についてあることに気が付きましたので、霊能力とは関係がありませんが書いておきます。

 

最近、日本会議に関する本が何冊か立て続けに出版されました。

日本会議のことは全く知りませんでしたので、いずれどれか一冊を読んでみようと思っていましたら、朝日新聞で2回にわたって取り上げていましたのでアウトラインがほんのわずか掴めました。

 

びっくりしたのは、支持団体に神道政治連盟が含まれていたことでした。

 

宗教団体が政治に関与することは、創価学会公明党を始めとしていくつもの例がありますので、さほど珍しいことではありません。最近では幸福の科学が派手にやっています。

しかし、これらの宗教団体はいずれも仏教系で、神道系ですと、大本教から派生した成長の家がかつて政治家を送り込んでいたことぐらいでしょうか。

 

神道政治連盟が存在することも朝日新聞の記事で初めて知りましたが、神道はやはり右翼なのですかね。右翼というと語弊がありますが、右なのですかね。

 

古代、日本は政治とまつりごとが同じだったので、神道が政治に容喙しても日本では何ら不思議ではありません。

しかし、私は明治以後の日本の起こした対外的な戦争のことを考えると、宗教が政治に関与することは危険なことだと思うのです。

 

宗教と政治は分離し、互いに関与せず独立していることが一番望ましい形ではないのでしょうか。

政治に首を突っ込むとたいていろくなことないですから。

 

それにしても神社の信者が票集めに動いており、それが有力な票になるとは初耳でした。

これじゃ創価学会と同じじゃないですか。神様が政治に関われとでも言われたのですかね。

 

私は戦中派ではありませんが、最近、日本は右志向が強く出ていると感じます。危険な兆候です。

右が強くなるとろくなことが起きないことは歴史を見ると明らかです。

 

 

霊能力と超能力20

神社の参り方

 

最近、神社が注目されているようだ。

雑誌でも何度か特集が組まれたし、本も出ている。

 

中には『成功している人はなぜ神社に行くのか』といった本も出ている。読んでないから内容は分からないが、神社に行ったからといって成功するわけではないと思う。成功本はたくさん出ているが、神社まで利用されるようになったのかとあきれてしまった。

 

私は長年ある神社に参っているが、成功とは全く無縁である。神社に参って成功するなら、私などはとっくの昔に成功している。

私は成功したいために神社に参ったことなど一度もない。そのような目的をもって参ることは、欲に駆られていることなので、参り方としては間違っていると思う。

 

さて前回、神社はパワースポットではないということを書いた。パワーを得るために神社に参るのも、神社の利用の仕方としては間違っている。だいたい神社は利用するものではない。

 

神社がスピリチュアルポイントだとかパワースポットだとかいった風潮は、江原啓之あたりが広めたらしい。

江原は神社紀行のシリーズ本を書いている。

スピリチュアリズムという西洋の似非宗教を布教している人間が神社に参るのはお門違いだと思うが、江原は厚顔無恥だからそのようなことは意に介さないようだ。

 

江原の神社参りは変わっている。神社に参って内観するというのだ。

つまり、神社の前で礼拝しながら、自分の中の神を見つめるというのだ。江原の場合、神は自分の内部にいるというのだから驚いてしまう。

しかし、それが目的なら、わざわざ神社になど参る必要はない。神社ではないどこか静かな場所で瞑想でもすればいいのである。

 

江原は外部の神や仏を自分の守護霊のほかは信仰していないので、神社になど参る必要はない人間である。

神社に参るのは神社におられる神様に祈るために行くわけである。昔から人々はそうしてきた。

ぞれをしない神社参りは邪道である。

 

スピリチュアリズムは変な考えをたくさん若い人に植え付けてきたが、神社参りもそのひとつである。

今、神社参りが人気なのはスピ系の若い人たちが行くようになったからかもしれないが、今のブームは錯覚による作られたブームではなかろうか。

 

15年ほど前は神社はどこも閑古鳥が鳴いていたからずいぶん変わったものだと思う。

 

 

 

 

 

霊能力と超能力19

スピリチュアル馬鹿

 

10日ほど前、ヤクルトスワローズ由規投手が長いケガから数年ぶりに一軍に復帰して勝利投手になった。

この記事を新聞で読んだとき、あることを思い出した。

 

今年の初めだったと思うが、あるスポーツ新聞にこの人の談話が載っていた。私は風呂屋で偶然この記事を目にした。

それは今年はケガから復帰できそうなので、また一軍で勝てるように、京都のある神社にパワーをもらいにいったという内容だった。

 

この記事を読んで、またひとりスピリチュアル馬鹿が現れたと思った。

最近、神社はスピリチュアル・スポットで、参拝すると何らかのパワーがもらえると信じている人が多いようだ。

 

神社がスピリチュアル・スポットだという考えを流行させたのは江原啓之である。

由規投手が江原の本を読んだとは思えないが、どこかでこの考えに染まってしまったのだろう。

 

最近は神社が人気で、参る人が増えたというが、パワーがもらえるということで、それまで関心のなかった人が参るようになったからだろう。

 

それにしても神社も変わったものだ。

むかしは神様に何かお願いをしたり、ご利益をもらいに神社に参っていたのだが、それがパワーに変わってしまったのだ。これは現代版の御利益信仰だろう。

また昔の人は神様に感謝するために参っていたのだが、今の人にはそのような気持ちはないようだ。

 

しかし神社に参ったからといってパワーはもらえない。神様はそれほど甘くはない。

私は長い間ある神社に参っているが、パワーなどもらったと自覚したことは一度もない。もっとも私はそんようなことが目的で参ってはいないが。

 

江原は神社で自然のエネルギーをもらうといっているが、自然のエネルギーとは何だろうか。全く意味不明である。これはパワーのことなのだろうか?

いずれにしても、神社に参っても自然のエネルギーなど身につかないことは確かである。

 

スピリチュアル・スポットは霊的な場所という意味である。江原はこのカタカナ言葉で一体何がいいたいのだろうか? 霊的な場所には霊的な力が充満しているとでも言いたいのだろうか? 神社に行くとその力を浴びることができるとでも言いたいのだろうか?

しかし、神社をその意味で考えているのなら、それは間違いである。

神社には霊的な力など充満してはいない。神社は霊(神)のおられるところで、霊の住まいなのである。これが神社の原義である。それは今も変わらない。

 

だから、神社に参ることは神様と出会うことなのだが、いまのスピ系の考えにはこの視点が全く欠落している。

神社に参っても神様はパワーなど与えてはくださらない。願いを聞き届けてくださることや何かを教えてくださることはあるが、それは参るものの日頃の行いと心がけしだいである。

 

とにかくスピリチュアルという言葉を使っている人たちは、神社を誤解している。

私は何も考えずにスピリチュアルという言葉を使っているたちをスピリチュアル馬鹿と呼んでいる。

ただ、これは由規投手が馬鹿という意味ではない。神社に関しては考え方が間違っているといいたいだけなのだ。

霊能力と超能力18

手かざし

 

前回、キリストが手を触れることで病気を治したことを取り上げました。

このことと関連して思い出したことがあります。

 

霊能者の中には相手の体に手を触れると体の悪いところが分かる人がいます。手が何かを感じるようです。

 

またこのことから手かざしを売り物にしている最近の宗教教団を思い出しました。

これらの教団は額の上に手をかざすことで心身に変化が起きると主張しています。掌から何らかのパワーが出ていると考えているようです。

その教団とは崇教真光世界救世教です。どちらも大本教から出ています。

 

崇教真光は掌のパワーを神の真の光だと言っています。

 

掌に何かの力があることは経験上分かります。傷に掌を当てると少しよくなったように感じたり、痛みが和らいだように感じることがあるからです。

手当という言葉があるくらいですから、一般的に手を当てることの効用は認められているようです。しかしそれは気分的なもので、大きな効果ではありません。気休め程度のものです。

 

この掌の力は本当に神の真の光なのでしょうか? これは大げさすぎるのではないでしょうか。

 

一般の人の掌から出ているのは神の真の光などではなく気です。これは外気と呼ばれているものです。気は微細なエネルギーなので、人体に多少何らかの効果を及ぼすのでしょうが、。

 

掌から何かパワーが出せるのは、本当の霊能者か超能力者だけです。

これらの人たちは気をサイエネルギーに転換でき、サイエネルギーをほかに人に及ぼすことができるので、病気が治るのですが、一般の人は気をサイエネルギーに転化できません。

ですから一般の人が他の人に手かざしをしてもほとんど何の効果もないと思われます。気にはさほどの力はないからです。

 

手かざしは昔はよく街頭で見かけましたが、一体何をやっているのだろうかと不思議に思ってみていました。あれは信者を勧誘するデモンストレーションだったのですね。変な宗教があるものです。

 

キリストが手かざしをすればもちろん何らかの効力はあるのでしょうが、一般人がやっても何の効力もないでしょう。

街頭でデモをやっている人は一般人でしょうから、手かざしをしても何の効果もなかったはずです。

 

 

 

 

霊能力と超能力17

病気直しと触れること

 

キリストの病気直しの特徴のひとつは、キリストが病者に触れることで病気が治るということでしょう。

その病者の中にライ病者がいました。ライ病は今日ではハンセン病と呼ばれています。

 

キリストの時代、ライ病は不治の病であり、神々の怒りの表れと考えられていました。

ライ病患者は砂漠に隔離され、放置されて死ぬ運命にありました。つまり社会的に認められていなかったのです。

そのような人たちをキリストは救ったのですから、人々は驚いたでしょうし、キリストの救済は社会的に見捨てられた人々を社会に復帰させることでしたので、反社会的行為、神を恐れぬ行為とみなされたことでしょう。

その意味でキリストは偉大な救済者であり、反社会的運動家、神に反逆する人間でもあったのです。この行為は人々の反感を買ったことでしょう。

 

では、霊能力のある人が皮膚病患者に触れると病気が治るとこがありうるのでしょうか?

こういう場合は一般的に、触れることで病者が清められるとか癒されると考えられているようですが、これはPK能力によるものでしょう。

触れることによって、霊能者や聖人のもっているサイエネルギーが病者の皮膚を変化させると考えられます。

 

触れることで病気が治ることで思い出すのは、オーラセラピストが病者に触れることでオーラを病者の体内に注入し、汚れたオーラをきれいにすることで治療することです。

このオーラは江原啓之が言っているようなオーラではありません。江原のオーラはこのような力はまったくありませんし、江原はこのような治療はできません。江原はオーラが見えているだけです。

 

オーラセラピストが病者に触れることで注入するオーラは一種のサイエネルギーで、本当のオーラセラピストは霊能力の持ち主だと思われます。

 

余談ですが、ライ病(ハンセン病)が主要なテーマとなっている日本の推理小説があります。松本清張の『砂の器』です。日本でも戦後までライ病は深刻な病だったことがこの小説を読むと分かります。

ところで、松本清張が霊能力を扱った小説があります。『神々の乱心』です。戦前の皇室と宗教をテーマにしておりなかなか面白い小説です。ただこの小説は晩年の作品で未完です。

 

 

 

霊能力と超能力16

西洋の悪霊

 

前回キリストの病気直しの一例として悪霊払いを取り上げましたが、西洋の悪霊について少しコメントします。

 

悪霊は「あくりょう」と読みます。英語ではevil spiritです。

 

日本ではなぜか悪霊とは言いません。悪い霊といいます。evil spritも悪い霊のいう意味ですが、同じ悪い霊と言っても概念が違うように思います。

 

悪霊で思い出すのは、「エクソシスト」という映画です。

この映画は1972年か73年かに公開されました。私は大学生でしたが、当時は見ませんでした。恐怖映画は嫌いだったのですが、見ても西洋の宗教に疎かったので、意味は分からなかったでしょう。

1970年代の前半は一種のオカルト・ブームで、日本では心霊漫画が流行りました。東西の文化現象は同時に似たようなことが起きるようになりましたが、その走りかもしれません。相互に影響し合っているのでしょうか。

 

エクソシスト」を見たのは10年ほど前でした。

見て感じたのは西洋の悪霊のすさまじさでした。

この映画は少女に悪霊が憑くのですが、憑くと激しく暴れるのです。

日本では悪い霊が憑いてもこのように激しく暴れたりはしません。おとなしいものです。ずいぶん違うものだと思いました。

 

西洋は悪魔憑きと悪魔祓いの伝統があるのですが、この伝統はつまるところキリストの病気直しの悪霊払いの流れを汲んでいるのではないのでしょうか。

聖書を読んでいるとそのようなことを感じました。

 

ただ、映画のように悪魔祓いで十字架や香水を使うので中世以後の習俗でしょう。キリストはそのような道具は何も使っていません。もっとも十字架などなかったわけですから使いようがありません。

 

西洋では悪霊と悪魔は同じもののようです。だが日本では悪魔という概念がありませんので、悪い霊は悪魔を意味したりはしません。

 

悪魔憑きと悪魔祓いをテーマにした映画は他にもいくつか見ましたが、内容は忘れてしまいました。ただ、悪魔憑きと悪魔祓いは西洋の宗教文化の底流に尽きることなく存在していることを感じました。

日本とはずいぶん違うと思います。

 

霊能力と超能力15

キリストの病気直し

 

前回キリストの人助けは病気直しが主だったことを書きました。

そして心霊治療は少なく、悪霊を払う治療が多かったことも指摘しました。

 

悪霊を払う治療は、除霊と似ています。

除霊によって病気が治ることは私も実際見聞しました。祀られていない男の霊が若い女性に憑き、女性が衰弱したのですが、男の霊を除霊によって払うと、女性が徐々に回復していったのです。

 

この除霊は霊を説得することによって行われたのですが、キリストの場合は気合もしくは言葉で払ってしまうのですからかなり違います。

言葉で払うことは日本と似ていますが、キリストの場合は一言ですので、気合に近いものがあります。

このように霊を払うといっても霊能者と風土によってかなり差があることは明らかです。

 

また日本の場合は霊が祀られていないということが病気の原因となっているのですが、キリストの場合はそんなことはありません。

キリストの場合、なぜ悪霊が憑いたのかがよく分からないのです。ただやみくもに憑いているという印象を聖書を読むと受けました。悪い霊だから人について病気を引き起こしているというただそれだけのように思いました。

 

悪霊は西洋の伝統で、ここから悪魔祓いがキリスト教の伝統になります。

これも宗教風土の違いだと思われます。

 

気合で病気が治るというのはありえます。

ただ日本の場合、気合で悪霊を追い出すのではありません。

明治時代に浜口熊嶽という変な修験者がいました。浜口は気合による病気治療が得意で、有名になりました。

浜口の場合は、気合をかけると、足が悪くて立てなかった人が立ったり、母乳の出なかった人から母乳がピュッと飛び出したりしました。

 

病気直しも調べている面白い例がたくさんあります。